御祭神としての乃木希典
なぜ乃木大将は、神として祀られることになったのか。
多くの人は乃木大将といえば、日露戦争の活躍を連想し、難攻不落の二〇三高地を苦労の末攻略し、旅順港を封鎖。日露戦争を勝利に導いた凱旋将軍として称えられたからだと言います。
しかしそれは乃木大将のごく一面に過ぎません。また「偉い人」「賢い人」だからでもなく、軍人として武勇、戦略に長け、優れていたからというわけでもありません。いわんや当時の政府が、神として崇め祀ろうと仕掛けたわけでもありません。
その要請は、民衆の間から自然に沸き上がったものだったのです。その理由は、乃木大将が学問を通して人道の奥義、真髄を究めつつ、その精神に生涯を掛けた、たぐい希れな人としての「生き方」にあります。
日露戦争に観戦従事した米国の記者スタンレー=ウォッシュバーンはその著書『乃木大将と日本人』の冒頭にこう記しました。
『大きな仕事よりも、むしろ人格によって、その時世に非常な貢献をする人が、三十年に一度か、六十年に一度くらい出現することがある。そうした人物は、死後二、三十年の間は、ただ功績を持って知られているのみであろうが、歳月の経つにしたがって、功績そのものが、その人格に結びついて、ますます光を放つ時がくる。例えば軍人であるとすれば、その統率した将士の遺骨が、墳墓の裡に朽ちてしまい、その蹂躙した都城が、塵土と化してしまった後までも、その人格と、人格より発する教訓とが、永遠に生ける力となってゆくからである。乃木大将は実にかくのごとき人であったのだ。」と。
ただ、この一文には間違いがあります。
「乃木大将」は、『死後二、三十年の間は、ただ功績を持って知られているのみ』ではなく、その死の直後から、乃木大将が質素・倹約の日常生活の中で、陰日向なく勤勉実直に人の道を歩むことを旨とし、身に一点の曇りでも生ずれば、直ちに責任を取るという生き方を貫かれたことに崇高さと感銘を覚え、畏敬の念を抱いて敬慕尊崇し、「神」として崇め祀られるようになったのです。
それは恰も、今日私たち個々人が、家庭で祖先や亡くなった親の霊を祀り、その人格や偉業を偲び、それを子孫に伝え、その御加護のもとに家族の繁栄と幸福を願うのと同様に、国民全てが「乃木大将」に同様の心を寄せたのです。