詩碑(乃木三絶)

 世に名高い「乃木三絶」といわれる漢詩の石碑です。
 
 乃木大将が古来希に見る優れた詩人である事は、広く世に知られているところです。その漢詩や和歌は今収録されているだけでも250篇にも及びます。
 
 それらを通じて、将軍の人柄や、その時々の風懐を十分偲ぶことができます。殊にその漢詩は、中国人識者をも驚嘆させる程で、不朽の名作数多く、今日なお多くの吟詠家によって愛誦されています。

金州城(きんしゅうじょう)下の作

金州城

山川草木轉荒涼   山川草木轉(うた)た荒涼

十里風腥新戰場   十里風腥(なまぐさ)し新戰場 

征馬不前人不語   征馬前(すす)まず人語らず

金州城外立斜陽   金州城外斜陽に立つ

歌 意
 山も川もことごとくすべてが荒れ果ててしまっている。十里四方に血生臭い風が吹く。ああ凄まじい戦場だったのだ。戦いに疲れたのか馬も進もうとせず、将兵もまた話しもしない。金州城の町外れで、今、自分は夕陽を受けて、ただただ立ち尽くしているばかりである。
 
鑑 賞
 乃木三絶(金州城下の作・爾霊山・凱旋)と云われる希典の代表三詩の中でも傑作中の傑作です。南山の戦跡(長男、勝典が戦死した地)を弔い山上の戦死者の墓標に向けて弔辞を供えた後に読んだ詩です。
 この詩は乃木希典の人となりの一端を示す姿そのものであり、また唐の詩人をも凌ぐ大詩人であったといえます。
 

爾霊山(にれいさん)

 

爾霊山

爾霊山険豈難攀   爾霊山は嶮(けん)なれども豈(あに)攀(よ)じ難(がた)からんや 

男子功名期克艱   男子功名克艱(こっかん)を期す 

鐵血覆山山形改   鐵血山を覆って山形(やまがた)改まる 

萬人齊仰爾霊山   萬人齊(ひと)しく仰ぐ爾霊山

歌 意
 二〇三高地が如何に険しくとも、よじ登れないはずはない。男子たるもの名を立てるには、如何なる困難にも打ち克つ覚悟を持たなければならない。その決意で地形が変わるほどの激戦の後、敵陣を制圧した。一方で多くの命が失われてしまった。今静かに仰ぎ祈るのは、まさしく爾(汝)の霊の山。
 
鑑 賞
 明治、大正、昭和前期の日本人の多くに知られていたあまりにも有名な詩です。
「二〇三高地の攻防は日露戦争の勝敗を決する戦いである。司令官に任じられたからには、それを達成しなければならない。そんな決意で臨んだ戦いも、多くの尊い命を失ってしまった。誰もがこの山を見て、あなた方の御霊が眠る山として頭を下げるであろう」と静かにこの詩を詠んでいます。
 この詩は、戦没の将兵を弔う慰霊式に臨んだ折、二〇三高地に凄惨なまでに銃弾と血が注ぎ込まれ、山の形まで変えてしまった激戦の地にたたずみ、様々な想いを込めて、静かに爾霊山を臨んでいる情景を詠っています。尚、第三軍に所属していた乃木大将の次男保典は、この二〇三高地の戦いで戦死しました。乃木大将は、保典戦死の知らせを聞いて「よく戦死をしてくれた。これで世間に申し訳が立つ。よく死んでくれた」と語ったと言います。愛する我が子の戦死に際してこう言わざるを得なかった乃木大将の心境は如何許りだったのでしょうか。

凱 旋(がいせん)

 

凱歌

皇師百萬征強虜   皇師(こうし)百萬強虜(きょうろ)を征し

野戰攻城屍作山   野戰攻城屍(しかばね)山を作(な)す

愧我何顔看父老   愧(は)ず我何の顔(かんばせ)ありてか父老(ふろう)に看(まみえ)ん

凱歌今日幾人還   凱歌(がいか)今日(こんにち)幾人か還る

歌 意
 多くの皇軍の兵士を強敵の征伐に向かわせ、山野での戦闘で死体が山のようになる惨状になった。一体どのような顔で戦死させた兵士の親たちに会うのか、合わす顔がない。勝利を祝う歓声パレードが響く今日、一体どれほどの兵士が帰ってきただろうか。
 
鑑 賞
 明治38年秋、日露両国の講和条約の成立を聞き、凱旋帰国の日を思うてその心境をうたったものです。
 「立派な多くの兵士が戦場に送りだされ、凄まじい戦闘となり、死体が山のようになる惨状になった。今日は凱旋と云うことで、人々は沸き返っているが、あの将兵達の一人一人の親達に、どう言って詫びたらよいのか。」自責に追い詰められている人間乃木希典の心境が痛いほど伝わって来ます。

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