御由緒

 乃木神社は、文武にわたる御功績この上なき乃木希典命とその賢婦人であられた乃木静子命を鎮め祀る神社です。
 
 ここ京都伏見桃山に乃木神社が建てられたのは、明治天皇の崩御に際して乃木大将が遂げた「殉死」の一事にあります。
 
 明治の御維新以来、国運の進行を図らせたまわれた明治天皇は、明治45年7月30日、遂に崩御あそばされました。御陵は「朕が百年の後は必ず陵を伏見に営むべし」との御遺志により、伏見桃山の地と定められました。
 
 明治から大正へと元号が改められた9月13日、国民の深い悲しみの中、東京青山葬場殿にて御大喪の儀が行われました。天皇の霊柩が御轜車に移され、皇居から斎場に向けいよいよ車列の出発を告げる号砲が鳴り響いたまさにその刻に、軍事参議官兼学習院長陸軍大将従二位勲一等伯爵乃木希典は、妻靜子とともに赤坂の屋敷にて皇居に正対端座し自刃されました。 
 
うつし世を神去りましし大君の御あと慕ひて我は逝くなり  希典
神あがりあがりましぬる大君のみあとはるかにをろがみまつる  希典
出でましてかへります日のなしときくけふの御幸に逢ふぞかなしき  靜子
 
 これらは、乃木夫妻が遺された辞世の詠です。
 夫妻は先逝されし天皇への忠義を貫き、自らの命を天皇の御霊に奉じられたのです。
 国民あまねく敬仰しお慕い申し上げた明治天皇の崩御に続く、忠臣乃木大将夫妻の自刃という揺るぎなき高邁な志と清く潔き振る舞いの知らせは、名君を失い悲嘆に暮れる国民にさらに酷烈な衝撃を与えました。
 夏目漱石は、著書『こころ』にて、明治天皇の崩御に際して

「其の時私は明治の精神が天皇に始まつて天皇に終はつたやうな気がしました。尤も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残つてゐるのは畢竟時勢遅れだと云ふ感じが烈しく私の胸を打ちました。」

と「先生」に語らせ、その一ヶ月後、今度は乃木大将殉死の知らせを聞いた「先生」には、その遺書の第一条に、35年前西南戦争に出征した際、熊本植木の戦いで連隊旗を奪われたことを挙げていたことを聴き
 
「乃木さんは此三十五年の間、死なう死なうと思つて、死ぬ機会を待つてゐたらしいのです。私はさういふ人に取つて、生きてゐた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、何方が苦しいだらうと考へました。」
 
と語らせました。
 また西田幾多郎はその著に
 
「乃木さんの死に就いて、かれこれ理屈を言ふ人があるが、此の間何等の理屈を入れるべき余地がない。近来明治天皇の御崩御と将軍の自害ほど感動を与えたものはない」
 
と語りました。
 また黒岩涙香は、
 
「国民は彼れを神として祭る可きか、然り、彼れを神として祭らんば、復誰を祭らんや・・・・実に乃木将軍は神にて在はしき」
 
と記し、乃木大将の赤誠に感銘を受けつつ夫妻の殉死を哀惜しました。
 
 乃木大将は、私心無き武士の誇りと天皇への赤心を、その一命をもって明示した類い稀なる傑人として、死してのちも国民の尊崇を集めました。また、軍人としての輝かしい功績は素より、日頃から質素倹約に務められ、陰日向なく素直に人の道を歩むことを旨とし、学問を通じ人の道を究め、真理を一心に求められた比類無き有徳赤心の人として、「乃木さん」と親しみを込めて追慕されるご存在でもありました。
 その傑出して勝れし御遺徳を偲び敬う国民の誠心はいよいよ昂まり、京都伏見桃山をはじめ北海道、栃木、東京、香川、山口など全国各地に「乃木神社」が建立されるに至りました。その中でも殊に、明治天皇が鎮まります伏見桃山陵を間近に拝し、恰も南側の御側近くにお仕えするかの如く北面して建つ当神社の景観は、
 
 うつし世を神去りましし大君の御あと慕ひて我は逝くなり
 
の辞世の詠を顕現しています。