乃木希典の人と形(なり)
生い立ち
御祭神乃木希典大将の御先祖は、宇多天皇第八皇子敦実親王の後裔佐佐木四郎高綱公です。
高綱公は寿永3年(1184)宇治川の先陣争いで名を挙げ、義経の軍を勝利に導き功名手柄をたてた武将で、乗馬の名手としても知られました。
乃木大将は、嘉永2年(1849)11月11日に江戸麻布日ヶ窪の長州毛利藩上屋敷に、父希次、母壽子の長男として生れました。乃木家は、前述の通り佐佐木源氏を祖とする武家の名流の出でしたが、長府毛利家では代々藩医として仕えていました。しかし、希典の父希次は、幼いときから剛直で武勇を好み、誰よりも熱心に武芸に励みました。そして卓越した弓馬剣槍や武家礼法を身につけ、藩医を免ぜられ馬廻役として中士に取り立てられるほど、質実剛健なる武士の生き方を敢然と貫いた硬骨の侍でした。
玉木文之進との出会い
一方その長子であった希典少年は、数え10歳まで江戸で育ちましたが、極めて体が虚弱で気も優しく、内気で神経質、そして臆病でした。学問に興味があり、武芸も一通り取り組むも、あまり関心が向きませんでした。こうした文学志向の乃木少年の志とは裏腹に、父希次は希典を何とかまともな武士にするため、乃木家の家庭教育は専ら武士になるため心身を鍛えることと、武芸を磨くこと、礼節をわきまえることに心が砕かれました。
希典10歳の時、希次は突然帰国を命ぜられました。幕末の藩政改革に際し藩政の重要問題について意見を上申したために咎めを受け、禄高を削られ国元にて閉門蟄居を命じられたのです。その頃住まいしたのが、当神社に復元されている「長府乃木邸」です。(詳しくはこちらを参照)
希典15歳のとき、学問をもって身を立てようと、親戚筋に当たる萩の玉木文之進の門に入り、ここから萩の明倫館(長州藩の学問所)にも学びました。玉木文之進は吉田松陰の叔父にして山鹿流兵学の師であり、また松下村塾を開塾した高潔で剛毅厳格な人物でした。
玉木文之進は、当初希典少年の入門の願いを「武士にあるまじき心得」として拒絶しましたが、玉木夫人の取りなしによって漸く入門を許されました。文之進は、父希次の願いと乃木少年の志を弁えて、先ずは畑作りを通じて体力を養い、その後文武に通じた人づくりにあたりました。
『士規七則』と『中朝事実』と『中興鑑言』
文之進は、希典入門にあたり吉田松蔭自筆の『士規七則』を与えました。『士規七則』は、吉田松陰が野山獄中にて思索の上綴ったものを、玉木文之進が添削して完成したものです。そこには、武士道の掟七箇条が明らかにされており、武士のみならず日本人の模範を示すものでした。乃木大将は、「われわれ当時の青年は、先輩より今の御勅諭の如く、此の七則に就いて訓戒せられるものなり」と言っています。
また乃木大将は『中朝事実』を生涯の愛読書としました。『中朝事実』は、儒学及び山鹿流兵学の大家であった山鹿素行が皇統の系譜と事績を記して、その正統性と政治的権威を主張した書物で、寛文9年(1669)に著わされました。乃木大将は、この中朝事実について
「『中朝』とはつまり日本国の事で、『事実』とは日本国存立の大事実でそれを正しく静観直視せしめて、皇道日本の将来を卜したのがこの書名の根本精神じゃ。要は我が日本国本然の真価値、真骨頂をよくよく体感具現しその国民的大信念の上に日本精神飛躍の気運を醸成し、かくて新日本の将来を指導激励することがこの本の大眼目をなしておる」
と、教え子に語るなど、自らの国家観、国体観を『中朝事実』の中に見いだし、常に肌身離さず戦場にあっても御守同様に必ず携行していたと云います。
乃木大将は、明治天皇崩御の後自刃殉死する二日前に、自ら書き写し朱を入れた『中朝事実』と水戸学の三宅観瀾が書いた『中興鑑言』を、迪宮殿下(後の昭和天皇)に御進講の上献上されました。
乃木大将の「殉死」は「諌死」でもあったのでしょうか。「諫死」は死をもって慷慨を体現する我が国の「文化」です。大御心を拝し奉ることを違え、「まつりごと(政治)」を乱す百官有司が跋扈する時代に移りゆくことに危惧を抱いた乃木大将は、明治天皇への「殉死」を以って、君民一体(国柄)の本義でもある天皇をお導きしお守りするという道義(みち)を示されたのです。
武人への道
慶応2年(1866)希典数え18歳の年、折しも大政奉還という一大事を迎えつつある中、乃木青年は次第に武人の道を歩みはじめます。
この年幕府は、尊皇倒幕の急先鋒長州藩を討伐せんと第二次長州征伐を開始しました。乃木青年は、長州の存亡をかけたこの一戦に、長州藩報国隊の一員として小倉口の戦いに出陣して長州藩の期待に応え初陣を飾りました。そして20歳の時、戊辰戦争が始まり、出陣に満を持していましたが出兵には至らず、再び明倫館に戻って、講義等を手伝っていました。
このころも乃木青年は、文武どちらで身を立てるかを大変悩んでいました。
結果的には、周囲の忠告を受け、伏見御親兵兵営に入営して、武人の道を歩むことになります。